C.A.P.10th-証言:倉智 久美子 

美術家

京都芸大の、まだ、構想設計が、描かない洋画、という苦しいものであったころの卒業生。見て育ってきたもの、学んできたもの、共感を得てきたもの、の、多くが西洋のものだった、ということが災いして、とうとう、2000年の秋からドイツ住まい。それは、アメリカで始めてみた、ドイツの作家達の仕事の思慮深さにうたれてのこと。The Chinati Foundation(アメリカ)などの、Artist in Residence に招聘。佐賀町エキジビットスペース、ヒルサイドギャラリーなどで個展。98年、自宅アトリエを公開して、インスタレーションを問う。2000年度 文化庁派遣芸術家在外研修員。Kunstakademie Du¨sseldorf で、Gerhard Merz に師事。その後、Du¨sseldorf Hafenのアトリエで 制作している。
かたくて理屈っぽいのではないか、と、思われるけれど、仕事以外の時はひとなつっこくて人がよく、かわいくてまじめな、ミニマリスト。もう少し、幅と楽しみのある人生を送りたいー、と願いながら、それが一番難しい、と、思うほど、不器用でかわいそう。いまもなお、やっぱりモダンアートを信じ、Bliny Palermoと、Ludwig Wittgensteinを このうえなく敬愛している。
 1999‐2000,CAP HOUSE 190日間の芸術的実験,2003年PARTYに参加。ギャラリー海側で個展。日本にも、帰ります。よろしく。

190日間の、芸術的実験のこと
神戸市立移民収容所、と、神戸育ちで70代の叔父などはいう,その古いビルを半年間つかって、とにかく出来ることをやってみよう、と、いう、CAPの誘いを受けて、3階の310号室に、アトリエを持たせてもらった。
南向きの明るい部屋で、故郷神戸の海が天気のいい日は遥かに見え、時間軸の交錯を感じる。長い人生さえ、まるで長い一日のようで、ここにこうして海を見ていると、少女のまま動かず年をとってしまったような気にさえなる。幸せ、と、呼んでいい時間。

いろいろなものが、クロスオーバーしていた。
まずは、建物。建築というものは、一般に、建てる目的があってたてられる。何のためだか解らない、たとえば、芸術彫刻のような建築、というものはないから、ここはまず、当時の日本社会が抱えた問題―移民を排出せねば、日本の中だけでは人口を養いきれないーという、その人達の出国準備のための施設として建てられた。堅牢なコンクリート造りだから、それはまず、そう簡単に変わらない、いわば、いつまでもそのように使われるものとして、建てられている。そして、其処にそれが建ったことで、人の流れも変わったはずだ。
ところが、その後、看護学校になり、海洋気象台になり、CAPが神戸市からの委託をうけて使えることになるまでは、何にも使われていなかったそうである。
1927?8?年の建築だから、本当は、そう古いものではない。
しかしその短い間に、この建物は、次々と姿を変え、本来の建築意図からは、遠く変貌していった。
その埃を取り除くところから、この190日間は始まった。
綿埃に絡め取られた黴臭い時間の束は、建物の事情など知る由もない若い人たちの手によって塵取りからゴミ箱へと移されていったが、それでも時間は、コンクリートの床の上に、沈殿して残っている。
芸術の場として、(例えばプログラム化された教室や、結果を予測できるワークショップのようなものではなく、プロジェクトでもない) 漠然とした始まりの場がここにはあった。

得てして,芸術を生み出すことそのものは、地味なものである。
芸術は、エンタテイメントではなく、そもそも見せるためにあるわけではないから、ほとんどの芸術家は、いつ作品となるか知れない形のない問いに、なんとか形を与えようとして大部分の時間を過ごしている。(ただし、与えられた形が、芸術 としてあるためには、第三者の眼が必要である。)
その地味さと、この建物からくる地味さは、奇妙にマッチして、外から見れば、まあ、何もないー、(それがアトリエというものの真実)、その状態を、おおぜいの人間が共有することで何か生まれないか、と、いう、個人が生み出すことの他に、集団になってこそ生まれる何か、という、二重構造のおもしろさが、ここにはあった。

観客がほとんどいない状態のまま、たとえばダンスなども、行われていたが、美術家の方は観客がいない状態にはわりあいと耐えがたい?らしく、毎日のようにアトリエで制作していたのは、残念ながら以外と少ない。

わたしは、比較的勤勉にアトリエに通った方だ。というより、それは自分の仕事なので、そうしていた。そして、ここでしようとしていたことは、もちろん、ふつうのアトリエなので、ふつうに制作をしていたのだけれど、それより一年半ほど前に自宅をつかってやったインスタレーションのための公開実験のようなものをやれないか、とも思っていた。半分パブリックな場所なので、観客がいてもいなくても、記録を残すには丁度よく、条件として、310号室には窓があったので、それを利用して更に進めることができると思っていた。
長い別の文を書かねばならないような気がするから、ここでは省くけれど、壁にかかった平面作品―其処におかれたそれーに含まれる空間の大きさ、‐それは、多くのモダニスト達が、ウオールペインテイングを試みている事からもわかるようにーが、更には一望の許にホワイトキューブをつきぬけた外部の空間も取りこみ、そして更には時間とともに変化していく風景そのものも(借景でなく)、それは、時間、という不可視のものがなんの種も仕掛けもなく作品に入り込むようにー取りこんで、芸術の中に何が 立ち現れるか、ということがわたしの興味の焦点であった。

これは、とても楽しかったし、成功したと思う。
あの時の写真を見て、いまもそう思う。観客の居ない状態の時、衝動的にダンサーのマキノエミさんと栗棟一恵子さんが、また、最後のオープンハウスの時に栗棟さんが、310号室を使ってパフォーマンスをしてくださったが、実はわたしの心の中には ジェームス タレル の四角い光の中に踊るシルエットが浮かび、演出ではなく、同じ空間の誘惑を与えることができたことに喜んだし、それはまた、まさに これこそが芸術的実験、ということの質の高い具体例であったと思う。そしてこれは、CAP HOUSEが、ダンス、音楽、美術などの芸術家がジャンルをこえて集っていたことの、一番の恵みであった。―壁、壁、壁、というつぶやきとともに、手のひらで壁を刷りながら始まったダンスをしながら彼女がとらえようとしていたものは、ホワイトキューブを突き抜けたとらえどころのない大きな時間と空間の広がりーわたしと同じものーだったのかもしれない。

CAPHOUSEは、決して完成作品を見せるための場所ではなかった。
そして、理想をいえば、神戸市その他のスポンサーに媚びることもないし、サービスをすることもない。思う芸術を高いところに持っていくことで、長期的には、充分お返しができるのだし、そのための地味で贅沢な実験が繰り返される、有機的な場所であり続ければいい、と、願っている。
突然デビューしたぶっち企画のアイドル達も、ここがいわばその桃源郷であったことの証しではなかったかな?

始まりの半年間、其処に居たおかげでいまもわたしの日本の家のようになってくれていて、帰国するたびに、着実に何かを実現していっているのを見ると、勝手にドイツにいってしまい、いままだ帰らない自分が少し恥ずかしいけれど、こんな場所があって、ここで活動している人達がいることを、とても嬉しく、大切に思っている。