ニューヨークを拠点に活動するトヨダヒトシさんは、一貫してスライドショーという形式にこだわり、長・短編の映像日記を発表している写真家です。何気ない日々の出来事を日記をつけるように写真に撮り重ねながらも、それらを印画紙に定着することはせず、消えていく映像として観客に提示していきます。
「消えていくものたちについて」は、そんなトヨダさんの初期の頃のスライドショーを観覧し、日々の中で消え去っていく「像」に関して、お話を伺っていきます。参加者の方々も一緒に話し合えればと思います。…大西正一
■消えていくものたちについて〜スライドショー/映像日記
スライドショーを見終えた後に襲われるある種の余韻は、像が現れては消えていくためか、消えてしまってただの壁となった現実にそれでも目眩のように訪れる残像のせいか定かではないが、トヨダヒトシさんのスライドショーには、常にこの「余韻」がつきまとう。それは、彼がただ彼自身の日々を撮っているのではなく、僕らが生きているこの「世界」に深く触れていることが、その理由に思えてならない。そんな彼の眼差しは、見続けることで存在し、撮る撮らないと関わらず、スライドショーの中で現れる。
2007年10月14日、当日は、幸いに過ごしやすい天候に恵まれ、ありがたいことに多くの人が、トヨダヒトシさんの話を聞きに来られた。トヨダさんと僕の付き合いは、もう6年目になる。初めは、僕が彼のスライドショーを観に行ったのがきっかけで、気づけば、彼のスライドショーの企画に印刷物のデザインまで担当するようになっていた。僕自身、写真を撮っていて、まるでタイプの違うトヨダヒトシという写真家に興味を持ったのも、もしかしたら自然な流れなのかもしれない。そうした個人的な経緯を経て、彼をLiving roomに呼ぼうと思い至った。
「ゾウノシッポ」と名付けられた30分程度の彼のほぼ処女作のスライドショーを観た後にトークショーは始った。スライドショーというあまり写真家にとって一般的ではない作品提示の方法は、彼の写真に対する懐疑の中から生まれた。彼の言葉を借りるなら「写真の持つある種の嘘つきやすさ性が、僕の中ではそのまま像を定着させるのではなく、いくつかの流れの中で見せていくことの方が、その時の自分の『本当』が見える気がする」、「スライドショーが、終わるとまた何もない壁に戻る。それは、過ぎ去っていく時間の流れの中に身をおいている日常に近い気がする」ということなのだけれど、つまり、写真は当然ながら現実そのものではなく、あくまである側面を切り取った「写真」なのだということをこれらの言葉は示唆している。
懐疑に陥った彼は、アメリカに渡った後に写真を撮れなくなってしまう。ある日、久しぶりにカメラを手にとって、「気になった、しかしありふれた景観」に眼を向けてシャッターを切ってみる。また、もう一枚。そうして撮り終えたフィルムをコンタクトプリント(シート状にしたフィルムを印画紙に焼き付けたもの)にして見た時に、トヨダさんは、何かを掴んだのだという。それは、一枚の写真ではなく、時間の流れの中で写し取った景観が、繋がりの中で真実を語っているように思えるということだ。その時間の流れこそがスライドショーに結びついて、現在の彼の活動の根本的な姿勢となった。
スライドショーの後の余韻のように彼が話す言葉の後には余韻が漂う。会場に漂った余韻は、まるで彼の時間の流れの中に身を置いているような気さえしてくる。その余韻が冷めないままに時間は一度終わりを告げ、「消えていくものたちについて」は、幕を閉じた。
《ホスト》大西正一(写真家)