2014年5月22日

【トモコの部屋】5月のゲスト:藤本由紀夫(アーティスト/C.A.P.メンバー)

C.A.P.は今年20年目。代表の杉山知子が毎月ゲストをお招きして、これまでの活動を振り返ります。

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5月のゲスト:藤本由紀夫(アーティスト/C.A.P.メンバー)

藤本由紀夫さんはC.A.P.がまだ名前もなかった、ただの集まりだったころからのメンバー。創成期や、20年経った今について語り合いました。藤本さんにとってC.A.P.って何なんだろう。

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藤本由紀夫 Yukio Fujimoto
1950年名古屋市に生まれる。大阪芸術大学音楽学科卒。70年代よりパフォーマンス、インスタレーションを行う。80年代半ばからサウンドオブジェ作品を展開。


■20年続くなんてありえない
杉山 C.A.P.はそのゆるさが不思議がられてきました。
藤本 だいたい20年も続くわけがないんですよ。バウハウスでも14年間しかやってない。C.A.P.が20年続くなんて、ありえないんです。
杉山 続けようとも思ってなかった。
藤本 20年続いたっていうことは、役目は終わったんだろうなと思うんです、時代にも合わなくなってるし。でも別にそれは悪いことではなくて、時代に合う合わないというのは当然あることだから。やることはやったんじゃないかと思っています。
杉山 20年で、何が変わったんだろう?
藤本 かなり変わったんだと思いますよ、それもおもしろくない方向に変わってきてる。
杉山 私たちは最初、美術館を変えたいという思いがあって、美術館とかギャラリーじゃないものをつくりたいと思ってやってきたけれど、今やいろんな意味でカジュアルになっています。
藤本 逆にそっちがメインになっちゃってる。
杉山 おもしろくないですよね。別のかたちっていうのもあるのかな、といま少し考えてます。
藤本 C.A.P.は杉山さんにとっては、表現の一つ?
杉山 絵を描くこと、作品を作ることも仕事ですけど、C.A.P.も自分の仕事の一つだと思っていて、表現という感覚がある。だから変わっていっていいんです。


■パーティーをしよう
杉山 藤本さんとは、1994年の最初のミーティングで、初めて私のアトリエで会いましたね。
藤本 石原友明さんから突然電話がかかってきて、石原さんが行くなら、と何も知らずに来ました。その数年前から石原さんの作品はおもしろいと思っていたし、話をするようになっていましたから*1。
杉山 ほかには大学時代*2から友達の松井智惠さんとか赤松玉女さんとかマスダマキコさんにも声をかけました。一番に連絡したのは椿昇さんで、椿さんは「集まって話しようや、チャイなんか入れて」と。そんなところから始まったわけです。もともとは私が神戸市の基本構想審議会に呼ばれたことがきっかけでした。震災前で、バブル時代の建設計画が進んでいて、各区に美術館をつくるといった話もあった。神戸市の将来を決めて行く会議にアーティストが呼ばれて意見が求められたことが新鮮で、美術館の構想に対してもみんなの思いをまとめて、市に提案しようと思ったんです。
藤本 ミーティングは、美術館に対する不満を吐きだす場だったような印象があります。僕もバブルの頃、神戸市の計画づくりに呼ばれたことがあって、でもその時の書類は引き出しに入ったままだと聞いていたので、提言書を出しても、どうせ届かないと冷めた感じで見ていました。
杉山 私は何かできそうな気がしていて。その時はC.A.P.の名前もなくて、提言書は連名*3で出しました。
藤本 おもしろい人たちが何かいろいろ話してる、その場が新鮮だった。僕は昔からの仲間でもないし、かといって無関係でもない。提言するより、集まって話をするということをやっていくほうがおもしろいんじゃないかと思っていた。
杉山 ちょっと疲れるなとも思ったけど、月1回くらいだったらいいかなと。
藤本 その頃、東京で「関西の人ってアーティスト同士で話をするんだね」って言われてびっくりしました。プライベートで会って話をするのが不思議みたいで。一緒に展覧会をするとか目的があるわけでもなく、経済的なメリットもないのに集まって話をするということは、貴重なことなんじゃないかと思ったんです。
杉山 それで、名前をつけてパーティーをしようということになった。藤本さんが言い出したのかな?
藤本 やりたかったんですよ、パーティー。一人ではできないから。普段の表現方法じゃなくて、パーティーをやる、そこから何か始まるかどうかわからないけどやってみる。ミーティングでは肩肘張ってても、パーティーだとそうはならなくて、おもしろいと思ったんです。おもしろかったら人が集まるんじゃないかと。
杉山 話もするけど、お酒も飲む、おいしいものも食べる。最初はクリスマスパーティーでした。
藤本 そうそう。椿さんが大きな鍋でカニをゆでて。
杉山 それはもうちょっと後です。私がシチューを作って。30人くらいいたかな、会費は1000円でした。そのパーティーをする少し前に、アトリエのある旧居留地で何かしようという話が出て、年明け1月17日に旧居留地連絡協議会の野澤太一郎さんのアポがとれたから、朝9時50分にアトリエ前に集合ってことになった。私と藤本さんと赤松さんが行くことにしてたけど、その日に地震が来ちゃった。


■空き地で遊べる
杉山 震災後、3月の初めに大阪で集まりましたね。始まったところだけど終わりかな、美術館への提言なんていうのも消えたなと思った、C.A.P.の役目は絶たれたと。ここで解散することもありえるし、でも一度集まろうと。ちょうど松井さんの展覧会*4があって、こんな時だからこそ、おいしいものを食べようと、美々卯の本店でうどんすきを食べた。
藤本 それまでの間、アートでチャリティをやるという連絡がたくさんきたけど、納得できなくて、すべて参加しなかった。
杉山 私も何かを与える立場というのがいやでした。
藤本 そういうことをやらなかったからこそ、じっくり関わってやろうとは思った。5年10年、自分なりに向かい合えるような関わり方をしてみようと。
杉山 チャリティに対する気持ちはみんな同じで、このまま続けましょうという話になった。顔を合わせて話をしたことはすごく大事だったと思う。まちが壊れて、ビルもいっぱいつぶれたのを見て、まち自体をミュージアムにする、旧居留地ミュージアム構想*5を考えてた。今だから何か変えられるっていう思いが私は強かった。松井さん、石原さん、藤本さんも大阪在住で、温度差があったかもしれない。
藤本 そうかもしれません。僕の気持ちが動いたのは、旧居留地が空き地ばかりになったこと。杉山さんのアトリエが角部屋で、空がよく見えた。空き地がいっぱいあるから遊べそうだ、それもここ1、2年だと。
杉山 震災からしばらくはアトリエに来ても何もしないで帰ることもあったんです。まちがものすごく変わっていく。隣のビルが傾いてて、ある日は什器を全部放り出して、事務机が外にあって書類が風で散っていく、映画みたいな見たことのない光景だった。それが空き地になり大きなクレーン車がいて、クレーン車には名前がついていて、あ、きょうは太郎が動いてるとか。大変だけど客観的に見ているところもあった。
藤本 それまでの構想がなくなって、逆に自分たちで何かできる状況になった。やっと発見した。身の丈に合ったことを始めることができた。
杉山 5月くらいから、また月1回のミーティング*6を始めた。震災のことを知ったフランスのアーティストたちからの義援金を受け取ることになったり、サロンもやりましたね。思い出に残るサロンはありますか?
藤本 やっぱりカニですね。椿さん、サロンの内容より、カニのことだけ考えてましたよね。
杉山 メンバーが一人減り二人減り、1、2年一緒にやってきたけど、負担が大きかったのかな?
藤本 そりゃそうでしょう。お互いスタンスもあるし。

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2014年3月7日 CAP STUDIO Y3にて収録

■C.A.P.は残念な場所
杉山 藤本さんには、C.A.P.はどう反映したのかな?
藤本 一人じゃできないことができる、やってみるとおもしろい。それは自分の作品に採り入れていける。これって何かなと考えたら、学校だな。勉強して身についたものが仕事として使える。97年から西宮市大谷記念美術館で「美術館の遠足」って10年間のプロジェクトを始めたけど、そこでやってたことも、先にC.A.P.で実験してた。
杉山 なるほど、学校ね。
藤本 じゃあ先生は?となると、いないなあ。誰もいない。毎時間、自習の学校。きょうは何を勉強しようと。教えてもらう必要ないですから、自分で学びますからという姿勢だから、何か教えてほしいと思ってここへ来た人には、残念な場所ですよ。

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杉山知子 Tomoko Sugiyama

1958年神戸市に生まれる。1984年京都市立芸術大学修士課程修了。1981年より京阪神をはじめとして各地で個展、グループ展を開催。


*1
1988年藤本が京都のヴォイスギャラリーで行った展示に石原が見に来たのが出会い(「関西で当時一番活発に活動していた人たちが興味もってくれたんですよね。石原友明さんとか森村さんとか、みんなだいたい京都芸大卒で」日本美術オーラルヒストリーアーカイヴ**より藤本談/聞き手=池上司)。92年、藤本を家元として大阪のギャラリーインターフォームを拠点に立ち上がった「大阪3D協会」に、石原は藤本の誘いで参加している。

*2
石原の談話(上記**と同)より「(京都芸大の構内を指して)この辺りです。実際にこの辺りの空間なんですけど、すごい面白かったんですよね。単純に。--略-- 森村さんが非常勤の先生でいらっしゃって。今、筑波大のデザイン科で教えておられる木村浩さんという人と、森村さんが非常勤で先生されてて。僕は大学院の学生で。で、隣の部屋で今ここの構想設計の教員になってる砥綿(正之)、高橋(悟)。高橋は2つ下ですけどいまして。その下に、古橋(悌二、注:ダムタイプのメンバー)がいて。ちょっと向こうに行くと、彫刻で中原(浩大)がいて。--略-- 染織に松井智惠がいて。油(画)の中に山部(泰司)とか杉山知子とかがいて。松尾直樹がいて。すごく、素のまま学校に行って、そういう連中とたまたま飯食ってたり、話してるだけで面白かったんですよ」。

*3
題は「これからの美術館」。神戸市の美術館構想に対するアーティストからの提言として、赤松玉女、石原友明、江見洋一、杉山知子、田辺克己、椿昇、砥綿正之、藤本由紀夫、マスダマキコ、松井智惠、松尾直樹の連名で提出。

*4
大阪心斎橋のギャラリーKURANUKIでの個展。インスタレーションの作品《LABOUR 彼女は重複する》が発表された。

*5
「旧居留地ミュージアム構想」は、1995年5月に兵庫県、神戸市、旧居留地連絡協議会などへ提出された。

*6

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1995年10月6日、杉山のアトリエで行われたミーティングの様子。義援金を受け、同月28日にはポートアイランドのジーベックホールで、ワンデイ・アート・パーティを開催。以降、C.A.P.主催の催しをCAPARTYとして行うようになる。下は、CAPARTYキャラクター、キャパちゃん。赤松玉女の作画。
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