2014年9月19日

【トモコの部屋】9月のゲスト:きむらとしろうじんじん(アーティスト)

C.A.P.は今年で20年目。代表の杉山知子が毎月ゲストをお招きして、これまでの活動を振り返ります。
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1997年、14組のアーティストがまちに散らばり作品を見せた「アート・ポーレン」。じんじんさんはあの時の路上パフォーマンスを20年続けています。20年前と何が変わった?

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【今月のゲスト】
きむらとしろうじんじん Kimura Toshiro Jinjin
1967年新潟生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科で陶芸を学ぶ。旅まわりのお茶会《野点》は1995年からスタート。広く国内外で絶賛開催中。


銀行前で火を焚くとは何事か!
じんじん C.A.P.に初めて来たのはこの部屋で、ちょうど「アート・ポーレン*1」のミーティング中でした。C.A.P.メンバーの原久子さんに呼ばれたのですが、原さんとはそのころ、京都で「アート・スケープ*2」というコミュニティセンターの運営や、エイズ・ポスター・プロジェクトを一緒にやっていました。
杉山 アート・ポーレンでは、神戸旧居留地の東京三菱銀行前で、《野点(のだて)》をしてくれましたね。野点のスタイルはあのころにできたのかな? リヤカーに窯を積んで、じんじんが焼いた素焼きのお茶碗に、お客さんが絵付けをして、焼いてもらって、お茶をいただく。
じんじん 最初は1995年に京都の百万遍あたりの路上で、ゲリラでやっていて、公式にはその後3回、京都でそれぞれ別の企画に呼んでもらいました。その次がアート・ポーレン。あの直前くらいにちゃんとメイクするようになったんです。遠藤寿美子*3さんに「じんじん、やってみいひん?」と声をかけてもらって明倫小学校*4の跡地で野点をしていた時、張由紀夫君*5が やって来て「じんじん、なんか汚い」といって、その場にあった筆ペンとマジックで描いてくれて。それが化けるようになったきっかけです。
杉山 大丸神戸店のすぐ前でやるからって、あの日は 相当メイクに気合いが入っていたと聞きましたよ。
じんじん あの時は、まだ自分で上手にできないから、ダムタイプにいたBuBu*6さんに頼んで手伝ってもらったんです。ドルチェ&ガッバーナ近くの路肩に座らされて、メイクしてもらって、やっと銀行前に着きました。でも、思い返すと、主催者側もかなりいい加減ですよね。道路の使用許可とか、とってなかったですよね。
杉山 見つかったら逃げるのが鉄則!
じんじん 逃げろといわれても、僕なんて大がかりだから、逃げられない。見つからなかったらいいなあ、 と思いながらやってたけど、5時すぎに撤収をしはじめたら突然、警備員が飛んできた。「こらあ!銀行の前で火を焚くとは何事やあ!」と。「すんません、片づけますんで」って。考えたら、警備員ものんきですよね、今だったらありえない。

単なる愉快犯としてやるのではない
杉山 じんじんが、20年も同じスタイルで野点を続けているのは、その時間だけじゃなくて、そこまでに至る手順もおもしろいからかな?と思うんだけど。
じんじん 野点自体もおもしろいですよ。
杉山 新しい発見があるの?
じんじん うーん、新しい発見ではなくて、毎回まったく違う! という感じですね。「なりゆき」という方がぴったりくる。野点がおもしろいし、僕は美しいと思っています。魅力的な現場ですよ。作業としての細かい工夫は延々続いています。焼き物への姿勢としては邪道かもしれないけれど、ろくろもちょっとずつ上手くなる。作業は楽しい。ビバ!作業です。
杉山 うん、わかるわかる。ビバ!作業。
じんじん でも、ずっと続けられたのは、確かに、折衝がそんなにいやじゃなかったから、という気はします。
杉山 やっぱり、そうでしょうね。
じんじん 路上はこうあるべき、とか大仰なことはいいたくないけれど、どこかで包容力があってほしいと願いつつ、どこのまちでも、そのまちの状況に翻弄されながら、必然的に折衝を繰り返し続けることになります。野点のパフォーマンスには、まちに住んでいる人が、その場所をどう眺めているか、どういう感覚で相対しているかが、明らかに反映されます。それをわざわざ抽出して、簡単にテーマ化してはいかんとも思っていますが。もし今、あの銀行の前でやるとしたら、めちゃめちゃ準備して、綿密に打ち合わせしないとできない。
杉山 それはC.A.P.も同じ。今は責任があるから、やり逃げみたいなゲリラ的なことはできない。
じんじん 今だとどこでも自主規制自主規制で、結局は何もやらないという結論になってしまう。あるいは大きく囲い込んだところでやるか。そのどちらかでしょう?かといって、ゲリラでやるのがいいのか、というと、僕は、単なる愉快犯としてやるのではない、という方が、おもしろいと思うんです。
杉山 そうね。CAP HOUSEを始める時も、消防署や役所の人と折衝して、お互いにパートナーとして歩み寄れる地点が見つかった時はおもしろかった。
じんじん 野点をやる時、近所の人に「やめといて」といわれてもダメージはない。そりゃそうでしょう、と思う。商店街だって、賛成してくれる人もいれば反対する人もいて、一枚岩じゃない。「そんなん家でやれや」「あほちゃう?」というところからスタートする。それはまともな状況ですよ。むしろ、怖いのは「アートだからオッケー」という空気です。

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囲い込んだ瞬間に路上ではなくなる
杉山 今、アートや文化のプロジェクトが、あちこちで安易に行われていることが、私には違和感があるんだけど、どうなんだろう?
じんじん 違和感はすごく感じます。巨大なアートプロジェクトでまちを囲い込むと、囲い込んだ瞬間にそこはもう路上じゃなくなるんですよ。美術館は「箱モノ」だとさんざん非難されてきたけれど、その箱がまちに変わっただけです。アートと呼ばれるフィルターを通したものなら、まちの人は摩擦なしに受け入れる。人が過剰にアートと呼ばれるものに適応していくような関係になっちゃうとしたら、それはおもしろくないことだと激しく思いつつ、同時に、僕自身や企画に関わる人たちが、摩擦も含めた個別の現場を簡単に 整理せずに、「ややこしいまま」関わり続けることが大事だと思っています。
杉山 じんじんはいろんな場所に呼ばれて行くから、路上で実感することもあるでしょう?
じんじん 巨大アートプロジェクトとか美術館にはあまり呼ばれません(笑)、自主企画が多いですね。でも、これまでにはトラウマになっているような、苦い思いもしています。アートプロジェクトの中には、 アートで地上げ? みたいな構造が見え隠れすることもありますよね。でも、自分だったら、そんな囲い込みの線引きを越境できるかも、という自負があったけど、なめてました。僕の力量不足で、結局囲いの中でやることになって、強烈な後悔が残りました。

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CAP HOUSEプロジェクトでの、きむらとしろうじんじん《野点》風景。
C.A.P.は1999年11月3日より約半年間、当時空きビルとなっていた旧神戸移住センターで「CAP HOUSE̶ 190日間の芸術的実験」を行っていた。野点はその期間中2000年1~4月の毎週末に行われた。


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2000年3月CAP HOUSEプロジェクトで、きむらとしろうじんじんと杉山。



スペースから路肩へ
杉山 ところで、じんじんにとって、C.A.P.はどんなものだったんでしょう?
じんじん 僕にとっては実験だった。2000年にCAP HOUSEが開いたころ、1月から5月に毎週末京都から通わせてもらいました。野点を毎週できるかどうかやってみたけど、実際はきつかった。毎週金曜は幼稚園のお絵かき教室をやっていて、週末は野点と、翌週分の器を焼いておかないといけない。ゴールデンウイークまでやろうと思ってたけど、その前に挫折して「GWはお休みします」と貼り紙をして、結局ずっと休んだまま、失礼してしまいました。
杉山 でも、その後も会議には参加してましたよね。
じんじん 失礼してからも時々、興味のある催しやワークショップには参加しましたけど、02年くらいまでですね。それからえらいご無沙汰しました。今考えると、当時の僕は、すでにいろんなスペースの運営に関わっていて、いっぱいいっぱいでした。路上に出たかった。アートスペースやクラブでやっていたことを道路の路肩でやってみたかった。すいません、長い間 CAP HOUSEにリヤカーを置きっぱなしにして。来てくれたお客さんからはお代をもらったのに、C.A.P.には所場代も払わず...(笑)。勝手な実験をさせてもらった恩返しせずに、勝手に出て行って...。
杉山 そんなことを長い間、気にしてたの?
じんじん ちょっとくよくよしてました。
杉山 CAP HOUSEは、場を利用して自分のやりたいことをやってみるという所だったから、そんなこと思っている人、じんじんぐらいじゃないかな?
じんじん じゃあ、ちょっとほっとしました。
杉山 幼稚園のお絵かきの先生はずっと続けてるの?
じんじん 続けてます。幼稚園の仕事しながら、ばたばたしていたら、20年たってしまった。杉山さんもそうだったんじゃない?
杉山 そう、あっという間。私、孫が3人いるのよ。
じんじん え? 孫? 孫が3人もいるの?
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2014年7月14日 杉山知子アトリエにて収録

*1
1997年11月3日、神戸旧居留地にて開催。pollen(ポーレン)は花粉。花粉が花と出会い実を結ぶように、まちの来訪者と作品が出会い、アートを成り立たせることが狙い。以下、13名と1組のアーティストが参加。きむらとしろう、徳田憲樹、山宮隆、木村望美、金山直樹、中川博志、椿昇、東野健一、山盛英司、石原祥充、木村健、森出、杉山知子、PUBWAY。

*2
Art-Scape。京都大学東の二階建て木造日本家屋を地代だけで借り受け、1992年スタートした自主運営のアートコミュニティセンター。エイズポスタープロジェクト( A.P.P.)の拠点でもあった。パフォーマンスグループ「ダムタイプ」の小山田徹が管理人で、遠藤寿美子(*3)、ヴォイスギャラリーの松尾惠、アーティスト南琢也も運営に参加。97年解散。(参考=アサヒ・アートスクエア
『Research Journal』Issue 01[スクエア(広場)]小山田徹「広場によせて」http://asahiartsquare.org/data/journal/ uploads/ARJ_01.pdf)

*3
1984年下鴨に「アートスペース無門館」(現アトリエ劇研)を設立、多くの劇作家や集団を育てた。91年から京都市の芸術文化事業「芸術祭典・京」演劇部門のプロデューサーを務めた。

*4
1993年に閉校した明倫小学校は2000年「京都芸術センター」となる。95~97年は試行事業が行われ、「芸術祭典・京」の会場として利用された。

*5
アキラ・ザ・ハスラー。アーティスト。1969年東京都生まれ。京都市立芸術大学大学院絵画研究科修了。1993年よりHIV/AIDSをめぐる活動を開始する。2000年よりアキラ・ザ・ハスラーの名前で作品を発表。

*6
ブブ・ド・ラ・マドレーヌ。アーティスト。1961年生まれ。京都市立芸術大学美術学部構想設計学科卒業。92年 A.P.P.設立に参加、94~96年ダムタイプ《S/N》に出演。社会派ドラァグクイーンとしても活動。


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