C.A.P.10th-証言:岩渕拓郎

美術家志望/メディアピクニック代表

1)CAPの活動に参加した当時のCAPの様子

「観光」に向けての叩き台を製作中。ミーティングから受けた印象は、とにかく理性的な大人の集団であるということ。そのころ知人などからC.A.P.について説明を求められて、実際に「大人な集団」だと説明した覚えがある。メンバーなど詳細についてはよく覚えていない。ただ藤本由紀夫氏については知人から「藤本さんめっちゃカワイイよ」とよく話を聞いていたので「あぁ、確かにカワイイな」と思ったのを記憶している。

2)CAPに参加した(メンバーになった)動機

 96年から98年まで、「WAVE117」(元「神戸から」)という雑誌の編集者をしていた。震災後の神戸に乱立した復興NPOの横断ネットワークから生まれたメディアで、主に復興とそれに伴う市民運動のあり方について考えるという内容。それまで友人の始めた小さなコンピュータ系の会社を手伝っていたが、経営悪化のため解雇。フラフラしていたときに知人経由でその編集部に拾われた。
 偶然にも旅行によって被災を免れていたため、編集部に入った理由は「編集者」という聞こえの良さぐらいのものでしかなかった。高校の時から、小説よりも、マンガよりも、雑誌が好きだった。ただ実際のところその仕事がそれほど面白いものになりえなかったのは、そもそも私がボランティアに対しても市民運動に対してもある種の疑念を抱いていたせいである。私は頼まれもしない雑誌のウェブを作ったり、他の商業誌のライターをしたりしながら、個人的にはあまり共感しにくい内容の原稿と向き合った。
 ちょうどその頃、私は音のパフォーマンスの活動を開始する。きっかけはポートアイランドにあるジーベックで行われていた「パーソナルミュージックパーティー」というイベントに参加したことで、同施設が編集部から目と鼻の先だったということは活動に拍車をかけた。また、編集部経由でC.A.P.というグループの存在を聞き、「メセナってなに?」「のぞき穴から見た街」に一般客として参加する。このふたつに関して私の中での直接的な接点はなかったが、ともに震災というネガティヴな出来事を体験した街のポジティヴな動きとして興味を持つ。
 98年になって編集部を抜けてフリーランスになると決めた時、最後くらいは自分なりの切り口で震災について考えてみたいと「被災地で遊ぼう」という特集記事を企画、C.A.P.代表の杉山知子とジーベックの下田展久にインタビューを行う。観客としてではない、C.A.P.との最初の接触。
 杉山氏のインタビューは旧居留地にある彼女のアトリエで数時間にわたっておこなわれた。その大半は雑談で、肝心の取材内容に関しては「遊びっていうか、お楽しみかなぁ」の一言で片付けられてしまったが、結果的にC.A.P.というグループのもつ軽快さを垣間見る。雑談の中で、自分が音のパフォーマンスをやっていることに触れると、次回ミーティングに遊びに来ないかと打診、快諾。宿題として北野地区の気になる風景を写真で取ってくるようにいわれる。
 ○月○日、初ミーティング参加。十数人のメンバーに交じって「観光」についての話し合いに参加する。各自がとってきた写真を並べてあれこれ話し合うが、いまいちノリがつかめない。という以前に「観光」が何をする企画なのかが良く理解できない。ただ自然と全体の折り合いがついてすこしずつ何かが決定していく感じが理性的で、純粋に驚いた。成りゆき的に次回ミーティングに誘われる。承諾。
 ○月○日、2回目のミーティング参加。だいぶ雰囲気がつかめた感じ。ミーティング終了後、会費を請求され、C.A.P.がメンバー制であることを知る。入会。