C.A.P.10th-証言:杉山知子

美術家

1958年神戸市に生まれる。1984年京都市立芸術大学修士課程修了。1981年より京阪神をはじめとして各地で個展、グループ展を開催。「アート・ナウ」(兵庫県立近代美術館)、「水戸アニュアル'92」(水戸芸術館)、「 震災と表現展」(芦屋市立美術博物館)などの展覧会にも出品。1994年に社会と芸術を結ぶ新たな仕組みを創る「C.A.P.(芸術と計画会議)」(2002年4月にNPO法人化)を設立しその代表も務める。

集まりの最初は、私が疑問に感じていた文化行政について率直な意見を聞き、できれば何かアーティストが主導でできることがないかを探るためだった。そして、私はごく気楽な気持ちで身時かなアーティストに声をかけ、私のアトリエに集まってもらった。

私が神戸市の行政に関わりを持った最初は、1992年にあった市長と壮年層市民との懇談会への出席だった。それがきっかけだったのかはわからないが、翌年4月から神戸市総合基本計画審議会の委員として約2年間、学識経験者や自治体のいろんな分野の人とともに、神戸市の将来についてあれこれと考える機会を得ることになった。私は市長懇談会で「都市の森構想」なるアイデアをしゃべったばっかりに、絵描きなのに、環境部会に組込まれていた。もともと「都市の森」なんて考えも、環境問題から出てきたものではなく、美術家特有のあいまいなイメージから湧いてでてきたもので、実際興味がある分野といえば、日頃関わっている文化芸術の部門だった。私は所轄も違うのに、文化部会の会議にも傍聴者として何度か出席をした。当時神戸市は震災前で、10年20年後の神戸には輝く未来があった。各区ごとに小美術館が配置され、農村部には芸術村が、若手アーティストの育成のために芸術アカデミー賞なるものも設けられることになりそうな気配。本来、傍聴席からの発言は認められないそうなのだが、正式な会議に不慣れな私は、神戸市のとても賛成できそうもない文化行政プランにあつかましく意見を言うこと度々。その内、「折角、声を出せるところにいるのだから、アーティストが自分たちで動いて少しでも良い方向に変えていけるのでは・・」という思いが次第に強くなってきた。私自身、それまでかなり早いペースで展覧会を繰り返し開いていたのだが、その頃、二人の子どもを育てるというごく普通の時間の中で、自分自身が動いてなければ、美術の世界なんて普通に生活している人にとって無いも等しく、また極端に閉ざされた世界だということをひしひしと感じていた。また作品集を刊行するために制作のペースを少し緩めて作品の整理にかかっていた時で、いつもより客観的に美術界を眺めていたせいかもしれない。また、私がお世話になっていたギャラリーシマダの嶋田日出男・啓子夫妻が、山口でI.C.A.を立ち上げようと様々な情報を流してくれていたのも大きく影響していた。ひとりであれこれと考えても進まないので、とにかく近くの親しいアーティストに声を掛けて私のアトリエに集まってもらうことになった。

1994年9月9日(金)午後5時〜  1回目ミーティング
椿昇、石原友明、松井智恵、松尾直樹、マスダマキコ、砥綿正之、藤本由起夫、田辺克文、江見洋一と私の10人が神戸旧居留地の私のアトリエ(トモズ)に集まった。最初、私は単純に、アーティスト自身がプロデュースする現代美術の展覧会を神戸で開けないものかと思っていた。しかし、話をするうちに日本の美術館や美術の仕組み、果ては日本の社会について、やり場の無い不満や愚痴が飛び交い、それは哲学論にまで及び、夜11時頃まで熱い討論が続いた。アーティストというのはもともとかなりややこしいものなのだけど、「こんなに複雑に難しく考える必要があるんだろうか。もっとストレートに作家が作品を作って見せるということをしちゃだめなんだろうか・・」と話を持ちかけた私が、出口が見えない状態に頭がくたくたになり少し憂鬱になった。多分、私が他の人たち程美術業界に深く関わっていなかったということなのかもしれなかった。とにかく、当時進行中の神戸市の美術館(ファッション美術館、西神小美術館)について、各部局へ状況を尋ねにいくということでこの日は終了する。

1994年10月15日(土)午後7時〜  2回目ミーティング
2回目のミーティングをトモズにて開く。前回、それぞれに溜まった不満が一挙に出たせいか、この日のミーティングはとてもスムーズだった。建設が予定されている神戸市西神の美術館計画について、当時コンサルをしていた橋本敏子さんを招いて具体的な内容を聞き出し、この計画も視野に入れて、アーティストの立場から本当に必要な美術館像をはっきり言葉にして提言しようということになり、松尾くんが大筋の文章を書き、それぞれが電話やFAXなどで加筆、修正などのやりとりをして仕上げることになった。(1994年11月1日神戸市市民局に提出「これからの美術館」)

1994年11月5日(土)午後5時〜  3回目ミーティング
出席者は赤松玉女、石原友明、松井智恵、松尾直樹、マスダマキコ、椿昇、藤本由起夫、砥綿正之、江見洋一、杉山知子。
当初考えていた、神戸市の文化行政への意見は「これからの美術館」に集約したことにして、9月から始まったこの奇妙な集まりに正式に名前を付けて、グループの趣旨、目的をはっきりさせ、外向きに活動をスタートすることで意見が一致する。当面の事務費として各自から1000円を徴収した。私はこの時もまだ、I.C.A.的な現代美術の研究機関をイメージしていたが、ミーティングの度に、さまざまな意見が出され、私自身、何が本当はしたかったのかが見えなくなることが度々だった。動いてみて方向を見つけていくタイプと、理論的に固めてから動くタイプがあるとしたら、多分私は前者なんだろう。

1994年11月12日(土) 4回目ミーティング
出席者は赤松、石原、松井、藤本、椿(途中まで)、マスダ、松尾、杉山。
グループの名前はC.A.P.(The Conference on Art and Art Projects)。外向きに取りあえず自己紹介できるものが必要だろうということで、「現代美術の普及と紹介を目的とする」ことや、、研究の場、情報交換の場、親睦と交流の場、提案の場、批評の場などの「場作り」を活動の内容にすることになった。また、代表は私が、連絡、応対、通信事務、会計の仕事をする事務局は私のアトリエと、サブとして夫の江見の事務所(DIAMOND)がなることなど、かなり中心的なことが建設的に決まった。また、C.A.P.のリーフレットの導入部分を私が、趣旨文を石原くん、松井さんが、そしC.A.P.のロゴマークとデザインを江見がすることになる。結局、動いていくことはイコール、目の前の事務作業をこなしていくとだということを実感する。

1994年11月26日(土) 5回目ミーティング
赤松、石原、松井、田辺、椿、砥綿、藤本、マスダ、松尾、江見、杉山の全員が出席。やっと、C.A.P.の性格付けの元が決まる。

■1995年1月17日(火)阪神淡路大震災
この日、朝10時に(株)ノザワの最高顧問で、居留地連絡協議会の会長の野澤太一郎氏に会いに、赤松さん、藤本さんと私で尋ねる約束になっていた。昨年出来たばかりのC.A.P.の始めの第一歩として、事務局のある居留地にターゲットを絞り、何か始めようということになり、まずは野澤氏を尋ねて相談にのってもらうつもりだった。その日の早朝、突然地震が神戸を襲った。約束の時間にその場所にいくことはもちろん、連絡さえも取れない状態だった。漸くその日の夜遅く、公衆電話からの赤松さんの連絡で、神戸在住のマスダさん、松尾くんもなんとか無事なのを知った。まさか地震なんて。折角これからという時に。これで振り出しにもどるのか・・とぼんやりとあきらめていた。3週間程してアトリエに出かけた。おもちゃ箱をひっくりかえしたような状態の中で、不思議なことに,年末のパーティーの為に買い揃えたワイングラスとプラスチックのお皿がひとつも割れていなかったこと。そして、C.A.P.の事務局をするのに新しく買ったFAX付き電話が奇跡的に棚から落ちていなかったこと。そんな些細なことが絶望的な景色のなかで、C.A.P.は続くのかもしれないという漠然とした予感を感じさせた。そして、折り重なって倒れているパネルを片付けていくと、昨年みんなで頭をひねり合わせて編集し、印刷屋から年明け早々届いたC.A.P.のリーフレットが段ボールに入ったままの状態で出てきた。偶然の力の不思議をこの時程感じたことはない。