2013年7月 7日

7/6 「気持ちいい音楽論レポート」

カフェトーク「きもちいい音楽論」
2013年7月6日(土)15:00~
話者:秋吉康晴(聴覚文化研究)、高岡智子(映画音楽研究)、太田賢佑(司会)
会場:CAFE&SHOP y3
参加無料(要1ドリンクオーダー)

こ こ10年ほどのあいだで「音楽に癒される」という言葉を私達はよく耳にします。何気なく日常に浸透している「きもちいい音楽」は、いったいなんなんでしょ うか。映画音楽研究者と聴覚文化研究者からのお話を手かがりに「きもちいい音楽」についてみなさまと考えてみたいと思います。

※ダイアローグ・カフェの太田 賢佑さんよりレポートが届きました

「気持ちいい音楽論レポート」於芸術と計画会議
2013年7月6日 於C.A.Pカフェ
太田 賢佑(ダイアローグ・カフェ)

「なぜ気持ちいい音楽か?」
この度、C.A.Pカフェにて「気持ちいい音楽論」というタイトルでトークイベントを行い ました。このようなタイトルでトークを行おうと思ったきっかけは、川田都樹子、西欣 也編『アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から』(平凡社、2013年)に収められ ている高岡智子さん(映画音楽研究)の論文「音楽療法の萌芽――「傾聴する音楽」から 「機能化する音楽」への転換――」でなされていた議論からでした。そこでの議論では、 おおまかにいうと「音楽の機能」について論じられています。例えば、20世紀初頭のアメ リカにおける大衆社会の到来をきっかけに、音楽は労働効率の向上を目的として社会のな かで機能したという否定的側面を指摘する一方で、当時の音楽心理学や教育学おいて現代 の音楽療法につながる有益な実験および実践を紹介し、音楽史のなかでこれまであまり語 られてこなかった肯定的側面を提示しています。このような指摘は、音楽療法の萌芽のみに留まらず、現代におけるわたしたちの生活において何気なく浸透している「気持ちいい 音楽」の背景を考えることの重要性に気づかせてくれました。というのは、「気持ちいい 音楽」には、音楽を気持ちいいものとして受容させるプログラム(音楽の機能化)が働い ているからです。というわけで、現代における「気持ちいい音楽って何?」という素朴な 疑問を高岡さんに聞いてみようとゲストにお招きしました。

そしてもう一人、高岡さんの議論からさらに拡げて現代の「気持ちいい音楽」を考えるた めに、現代の音楽に密接に関わっている背景――録音技術、聴取のあり方、テクノロジー など――に精通している音(楽)の研究をされている方を招く必要がありました。そこで この度ゲストスピーカーとして聴覚文化研究(メディア理論・美学)の立場から「声と録 音メディア、機械の声」に関する研究、あるいは、「都市と騒音」「聴衆の病」の問題に ついて考察をされた秋吉康晴さんを加えて、両氏に「気持ちいい音楽の背景には何がある のか」といったことをテーマにそれぞれお話をして頂くことになりました。

「気持ちいい音楽=癒しの音楽?90年代~2010年代」
さて、「気持ちいい音楽」とは、一体なんでしょうか。それは、言い換えれば「癒しの音 楽」であるともいえます。「癒しの音楽」といえば、日本において、1990年代にクラシッ ク音楽が「癒し」として聴かれるようになったり、あるサプリメントのCMで使われたイン ストルメンタル――後にこの曲が「癒しブームの火付け役」といわれることがしばしばあ ります――が、器楽曲としては初のオリコンチャート第一位になり、ちょっとしたブーム となりました。その後、インストルメンタルや録音された自然の音が「癒しの音楽」とし て受容され、メディアに大きく取り上げられていきました。以後、CDなどでこれらの音楽 を家で聴いたり、ヘッドフォンで聴いたりした方は多くいらっしゃるのではないでしょう か。 90年代の「癒しの音楽ブーム」から10年程あとに、これまでの受容とは少し違った「癒し音楽」を推奨するメディアもあらわれました。それは、ある雑誌で組まれた「気持ちいい音楽」という特集の内容から見受けられます。この雑誌では、「気持ちいい音楽」を色んな音楽関係者から推薦してもらって紹介したり、あるいはさまざまな都市のどこでココロを安らがせてくれる気持ちいい音楽が聴けるのかを紹介する内容となっています。ここでは、気持ちいい音楽=癒しの音楽は、仕事の疲れを癒すために、仕事帰りに気持ちいい音楽が流れているカフェやバーを紹介することによって、明確に「癒しの音楽」の受容の場所や文脈を提示しています。しかも、インストルメンタルや自然の音、クラシック音楽とはまったく異なるレゲエやボサノヴァなどの音楽を主に取り上げています。このことが示唆することは、「癒しの音楽」はCDなどで個々人で聴くだけではなく、カフェやバーといった都市のなかの空間において受容するという90年代の「癒し音楽」とは少し違った聴取の側面を垣間みせているということ、さらに「癒しの音楽」はジャンルをどんどん拡張していっているということです。以上のように、かなりおおまかですが、90年代から2000年以降の「気持ちいい音楽=癒しの音楽」の日本における受容の例を挙げてきました。

秋吉康晴さん「癒しという聴き方」
まずトークのイントロとして「気持ちいい音楽」を考えるために、「癒しという聴き方」って一体どういった聴取のあり方なのかを秋吉さんにお話してもらいました。そこで言及されたことは、ヒーリングミュージックというものは80年代くらいからリラクゼーションを目的として作られた音楽だったと。その特徴は、テンポがゆったりで、展開が単調、音の強弱が一定で、アンビエントが効いた持続した音楽であったのです。ただ今CDストアでヒーリング音楽のコーナーをみていると、そこにはヒーリングとして制作された音楽ではないもの――クラシック音楽、聖歌、民俗音楽――がジャンルとして収められている。そこからなんとなくわかることは、「癒しの音楽」はとにかく「癒し」が求められて色んな音楽ジャンルを取り込み、癒しのマーケットを拡張したのではないかということでした。そして、そのような「癒し音楽」の拡張は、そういった音楽の聴き方にいくつかの特徴を与えているように思います。まず、聖歌やクラシックなどがもっていた宗教的儀礼や集団の結束といった背景への無関心性がある。2つ目に、音としての響き、情動に働きかけてくるような音という感覚性を重視している。3つ目に、散漫な聴取のあり方、聞き流しの聴取といった音楽を全体的に統一したものとして聴くのではなく、ぼんやりと流しながら受容するような聴き方が特徴として挙げることができるのではないでしょうか。

「遍在する癒し」
「癒しの音楽」のあり方の特徴は、積極的に聴かれるものとしてあるのではなく、ただ流れている音楽です。例えば、BGM、エレベーターミュージック、環境音楽など。そういった音楽をプログラムしている側は、実は色々と工夫を施すように考えています。それは音を応用して環境を変化させるプログラムです。オフィスのBGMでは作業効率を上げるためにリフレッシュできるような音のプログラムされている。工場ではアップテンポなBGMがプログラムされている。病院では気分を落ちつかせるためにヒーリング効果のある音がプログラムされるといったように環境に応じて音のプログラムは変わっていきます。これらの音楽のプログラムの背景にあるものは、心身の科学に基づいた「管理」という着想があります。例えばそれは労働の苦痛の軽減であったり、快適なオフィスで仕事をする心地よさの増大だったりします。ただ「快適な環境」には、裏返せば合理的な環境へと変化させるという目的がつねにあるということは重要です。では、このような音楽のプログラムのあり方は歴史的にみてどこからやってきたのか。その辺りのことを高岡さんに聞いてみることにしました。

高岡智子さん「癒しの背景」
「癒し」が求められた歴史的な背景とはいったいどういったものだったのでしょうか。高岡さんの話では、20世紀初頭のアメリカのなかに現代の「癒し音楽受容」とつながる背景があるのではないかということでした。その当時の社会的背景を辿る前に、それがわたしたちの生きる時代とどのようにつながっているかの例として、1980年代における《アダージョ・カラヤン》の流行が挙げられます。《アダージョ・カラヤン》の流行は、当時バブル期だった日本においてディスコミュージックなどアップテンポな音楽が流行していた一方で、その対極として受容された社会的な背景があるのではないかということです。つまり、「癒し」が求められる背景として、そこには「癒し」の対極にある「なにかが」関わっている。そこで「癒しの音楽」は機能する。

「社会のなかで機能する音(楽)」

もう少し詳しく別の例で、音の機能についてみていきましょう。現代わたしたちの生活している空間では、音(楽)はあらゆるところで機能している。例えば、実用的に機能する音としてスマートフォンの音、信号機、電車の発射音などがあります。BGMでは、秋吉さんの話にもありましたが、病院や居酒屋、カフェ、スーパーなど購買意欲をあげる目的や落ちついた雰囲気を醸し出す音楽が流れたりします。環境音では騒音/ノイズといったものが挙げられるでしょう。このような町中に流れている音(楽)は、20世紀初頭のアメリカにおける大衆社会の到来にその顕著な起源が見出せそうです。さて、20世紀初頭のアメリカの大衆社会とはいったいどのようなものだったのでしょう。

「大衆社会の到来」
ここでは詳しく言及できませんが、主に取り上げたいのは1930年代あたりの当時の社会的背景です。そこでは時間の感覚が加速してゆき、フォードシステムというベルトコンベアー式の労働形式があらわれ、サラリーマンの誕生という労働者の増加が特徴です。こういった大衆社会の到来に音はどう機能したのか。例えば、チャップリンの『モダンタイムズ』のなかで、当時の労働場面と労働者を管理するのに音がどう機能したかを確認できます。このように労働者の増加に加えて労働環境内に機械が導入されたこと、それによる時間感覚の加速といった社会が到来したのでした。

「多様化する音楽」
音楽を社会のなかで機能させるために応用する着想は、例えば19世紀ロマン派音楽として「音楽=精神性」という結びつきからうまれたといえるかもしれません。当時の人々は勉強をしに音楽を聴きにいっていました。それこそが教養ある人の音楽の聴き方だと思われていたからです。そういった「精神性の向上」としての聴取の揺り戻しとして「社会に音を機能させる」という着想がでてきたのではないか。

「20世紀における音楽の社会的機能」
では20世紀初頭では、具体的にどういったものが機能を果たしていたのでしょうか。例えば、分かりやすい例で言えば、ミューザック(1934年)の出現が挙げられます。ミューザックは、1930年代にラジオが普及し、そこから流れてくるニュースなどの情報が労働の集中力低下につながると考えました。そこでそういった散漫な集中力を解消させるために、BGMという「聞き流す音楽」の配信を始めたのです。つまり、邪魔な音を消すために、気にならない音を追加するということを行ったのですね。このようなミューザック社の音の応用が現代のBGMへとつながったわけです。

「大衆社会に音楽心理学・教育はどう関わってきたか」
先に述べたミューザックのような音の機能とは別に、音楽心理学の領域で非常に興味深いことが行われていました。例えば、心理学者ケイト・ヘヴナーという人の研究が挙げられます。彼女は音楽と感情の関わりを普遍化しようとして非常に興味深い実験を行っています【※ヘヴナーの実験内容についてはここでは書ききれないので興味ある方は高岡智子、「音楽療法の萌芽――「傾聴する音楽」から「機能化する音楽」への転換――」をご参照ください】。一方、教育の方ではハープ奏者のヴィレム・ヴァン・デ・ウォールの活動が挙げられます。ヴァン・デ・ウォールは、海軍のハープ奏者として活動していました。その後、病院などの施設で現代のコミュニティ音楽につながるホスピタルミュージシャンとして活動を行いました。これは音楽療法の萌芽ともいえると思います。施設での音楽の応用、すなわち「音楽すること」は、コミュニティを形成し、精神的な病を抱えた人や社会からはみ出してしまった人たちを社会復帰させることに成功しました。こういった心理学および教育学的活動において、音楽は「管理」や「散漫な聴取」の機能とはまったく異なる機能をしたといえます。

秋吉康晴さん「ムードミュージック」
高岡さんの話だと「癒しの音楽」には、1930年代のアメリカにおける大衆社会の到来という背景があった。そういった社会背景において心理学がどのように関わってきたかといった話になってくると思います。秋吉さんは、30年代のミューザック以前に20年代に心理学の応用としてエディソンが考えたムードミュージックを挙げます。ムードミュージックが出てきた背景には、混沌化した都市があったと。そこで音楽は、ムード(気分)で分類されていきます。では、そういった混沌化する社会とは具体的にどういった社会だったのか?

「テクノロジーがもたらしたもの」
両大戦期間における特徴は、「マシンエイジ」、「狂乱の20年代」といわれるように、生活の象徴としてのテクノロジーを賞賛した時代であったと思います。ただ、その裏面として過密な人口、劣悪な労働環境、都市生活における疲労や神経衰弱が問題となった時代でした。そこでは集中力や労働意欲の低下、過度の疲労、不眠など不健康な生活を送るひとびとが大勢いました。その原因のひとつとして都市の騒音というものがあったように思います。ムードミュージックは、そのような都市の騒音から逃れるように受容されていったのではないかと思っています。現代における「癒し」の萌芽は、20年代のムードミュージックにも見出すことができるのではないでしょうか。そしてより重要なのは、ムードミュージックが受容された背景には、都市の騒音という問題を解消するために、騒音をどうにかするという着想ではなく、心地よい音楽を提供するサービスが心理学の応用も兼ねて現れたことであり、劣悪な環境のなかでも効率良く労働ができるように「癒しの音」を持ち出してきたんだということです。こういった着想は、劣悪な環境への不満をいかに抑圧するか、そしてひとびとをいかに管理するかといったことと密接に結びついていた。極端な話かもしれませんが、こういった「癒し」の背景を考えると、「癒しの音楽」はある種のマインドコンロールとしても機能していたのではないでしょうか。

「フリートーク:癒しを超えること、あるいは徹底して癒しを紐解くこと」
以上、秋吉さん、高岡さんに「気持ちいい音楽の背景には何があるのか」といったことを主題としてお話していただきました。ここからは、ご来場いただいた方々のご意見をうかがって、一時間ほどフリートークを行いました。そこで挙げられた意見では、個々人の経験と密接に結びついている聴取経験についてはどう考えればいいのか、「癒し」という言語の問題、音楽ジャンルとしての「癒し」は単にマーケットの問題なのではない等々ここでは挙げきれないほどのご意見をいただきました。確かに、これらのご意見についてもっと議論できれば良かったかもしれません。ただ、今回「気持ちいい音楽」が、実は両大戦期間にその萌芽がみられ、そしてそれは「癒し」といった心地良さげなものに隠されているもの、つまり音のプログラムを利用したコントロールが裏面にあるということを前提に両氏ともに焦点をあててくれて、それぞれ違った見解を導いてくれたことは重要だったと思います。高岡さんが指摘するように、ミューザック社の実践にみられるように労働効率の向上の背景には、大衆社会というものがあり、BGMなどがコントロールとしての「癒し」として機能してきた。ただし、「癒し」を超えたホスピタルミュージシャンなどの「音楽すること」の実践のように、社会に有益な音の機能をもたらしていた側面ももっと考えていかなければならない。そこに「気持ちいい音楽」の肯定的な側面を掬い取ることができるかもしれない。ただし、秋吉さんが指摘するように「癒しの音楽」のプログラムの裏面には、「管理」という機能もあるということは忘れてはならないでしょう。「気持ちいい音楽」を考えるうえで、「癒し」というマーケットがある一方、そのマーケットには姿を現さない癒しの極にあるような音の機能もあるという指摘は重要であるかもしれません。そのような音の機能とは、たとえばマインドコントロールとして機能したり、音(楽)による拷問へと結びついたりしている。「癒しの音楽」と「拷問の音楽」は、実は同じようなプログラムでつくられており、同じような聴取の構造をもっている。そして、それは戦場のような極限状態の場所で効率良く機能していること。そういったマーケットには決して浮かび上がってこない音(楽)についても考察していかないと「気持ちいい音楽」の背景は、依然「癒し」というものに隠蔽されてしまうことになりかねないのかもしれません。高岡さんは「音楽すること」に注目し、「癒し」を超えた有益な音の機能を果たしている「気持ちいい音楽」についてお話してくださいました。秋吉さんは「癒し」を超えず、徹底してその聴取の構造を紐解くことで、なかなか浮かび上がってこない「気持ちいい音楽」の裏面にある音(楽)の機能についてお話してくださいました。暑い日に丁度良いゾッとするような話も聞けて楽しい公開勉強会でした。

高岡智子(たかおか・ともこ)
1979年生。神戸大学大学院博士後期過程修了。
現在、日本学術振興会特別研究員(京都大学人文科学研究所)、神戸大学、甲南大学非常勤講師。
専門は、映画音楽、東ドイツポピュラー文化。

秋吉康晴(あきよし・やすはる)
神戸大学大学院人文学研究科所属。
京都精華大学非常勤講師。
専門は、メディア理論、音楽学、美学。

鳴海健二 01カフェ日記
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