2013年2月20日

1/30 韓国から面白いチーム!(解説:藤墳智史)

2013年1月30日(水)カフェトーク 文化ゲリラ活動ソウル報告会「都市解体方法論」
               19:00〜
               話し手:文化ゲリラ活動ソウル(Donguk Agos Lee、Gwon Hong)
               参加アーティスト:Beomki Lee、Chankyu Sung、 Eunkyoung Woo、Huira、Renee Kim
               参加費:1,000円(Diny Lee作童話の本「都市解体方法論」と1ドリンク付)

               価値を失った都市は即座に廃れていく。
               そこに新しい多様な文化的価値をもたらす実験を行った。
               ソウルでの我々の実験と神戸のCAPの活動に通じるものがあるだろうか?
               パフォーマンス、演劇、展覧会などソウルでの活動を報告します。


と、まあ穏やかで無い感じの報告会に聞こえますが、至って真面目で面白い韓国からのグループです。
しかしこの活動を読み解くには、生身の素人カフェ運営人などでは難しい(すべるのが怖い)。
なのでここはCAP最終秘密兵器の藤墳くんにスベリーノ式突撃潜入レポートでお願いいたします。
それではどうぞ!(長くなるぞ〜)


Y3ブログよ! 私は帰ってきた!! 久々登場、謎のCAPレポーターの藤墳智史です。ん? 名前の読み方がわからん? 「ふじつかさとし」です。知らん、という方にははじめまして。片や、今までお前は何しとったのか、何で今ごろ出てきたんや、と思われる方もいらっしゃることかと。まあ別に今までデラーズ・フリートに逼塞していたわけではないし、ガンダム2号機を強奪するようなことをしていたわけでもありません。ジオンの理想を掲げるために今回出てきたわけでも勿論ありません。レポートをするために帰ってきたのです。生暖かく見守ってくだされば幸いです。ともかく、あれこれ並べるのはこのあたりで。

というわけで、去る1月30日に韓国から文化ゲリラ活動ソウル(Guerrilla Cultural Movement Seoul、以下、GCMS)をゲストに招いて開催されたカフェトーク、「「文化ゲリラ活動ソウル報告会「都市解体方法論」」の模様をお伝えします。

廃れていく都市、あるいはその中にある解体途中の建物。それ以前を思い起こすことができないほど、まったく別の様相を持つ場所へと作りかえられていく空間。それは世界中の多くの都市で共通して起こっている、ごく日常的な風景、出来事でもあると思います。ごく普通の、代り映えしない場所、なおかつ消えることが運命づけられている場所。そこには活動の痕跡も残らないし、そこが継続的な活動の拠点となることもないでしょう。例えば、そこで芸術を行うことは「作品」を残すことをアーティストが放棄していると受け止められることもあるかもしれませんし、一方では、どことなくCAPに関わってきた人にとっては共通する点もあるように感じられたかもしれません。そんなGCMSのトークの内容をいくつかのキーワードを取り上げながら紹介してみたいと思います。

・Urban Pixel──都市の空白、狭間
 今回、CAP Y3を訪れたGCMSのメンバーは7人、建築家や都市プランナー、そしてアーティストから成るグループだ。韓国の首都ソウルで、今まさに解体途中のビルを舞台に活動しているといいます。
 彼らは、自身が現在活動を行なっている解体途中のビル、あるいはその周辺の地域を指して「アーバン・ピクセル(urban pixel)」と呼びます。単純に解釈するなら、都市の空白、狭間といったニュアンスが適切でしょうか。 都市の空白、狭間と言われても即座にはピンと来ないかもしれませんが、ソウルという都市が置かれている特有の状況を引き合いに出すと理解しやすいでしょうし、ソウルという都市の「戦後」の歴史、やそこで生きてきた人たちの体験そのものが、「アーバン・ピクセル」という言葉に象徴されているとも言えるでしょう。
 東アジアの多くの都市にとって、第2次大戦の戦災からの「復興」が都市の再スタートであったように(日本では「戦災復興計画」が知られています)、韓国でも「復興」が多くの都市にとっての再スタート地点となりました。特に1950年に始まった朝鮮戦争では、朝鮮半島全土が戦場となり、激しい地上戦の結果、韓国でも多くの都市が甚大な被害を受けて荒廃します。都市の基盤は完全に失われ、何もない焼け野原が都市の再出発点でした。韓国の都市の建物の多くはこの時期以降に建てられたものであり、半世紀以上の歳月を経て、それらの建物や古い建物が集中する地区は建て替えや再開発の対象となっているといいます。
 また、1961年の軍事クーデター以降、ソウル市長は長らく政府による任命職となっていました。1995年から、ようやく選挙によって市長が選ばれるようになります。都市計画に市民の声が反映されるようになったのはつい最近のことだというわけです。そうした事情もあって、ソウルの街は市長の任期ごとに特定の地域が重点的に開発・再開発されるという状況に置かれてきました。例えば、1988年のソウル・オリンピックにともなって市内の地価が高騰し、大規模な再開発と住民の強制退去が繰り返されたことは、その代表的な出来事だと言えます。こうして、大規模な開発・再開発が繰り返される結果、ソウルという都市の中には開発から取り残される地域、見捨てられた地域が現れるようになります──「アーバン・ピクセル」。これらの都市の挟間に位置する建物が、GCMSの活動の舞台となっています。
 大規模な再開発と強制退去というあからさまな形でなくても、より多くの人や物、お金が行き交うように都市を作り変えることは、人や物、お金が国境をものともせず動きまわるようになったこの世界では共通の現象でもあるでしょう。都市自体が商品になる、と言えば神戸にとってもわかりやすいかも。Y3から道を1本隔てた地域は「異人館街」として、都市の景観そのものが観光地という商品と化しています。片やトアロードを一本隔てれば、「旧移民収容所」が、まるで「アーバン・ピクセル」かのように、商品化の波から取り残されていました。三宮と人工島ポートアイランドの狭間であるQ2(新港)もまた然りです。
 「アーバン・ピクセルは」は単に狭間であるだけではなく、都市計画から取り残され、人や物、お金動きが活発ではない(経済的にも弱い)地域でもあります。より行政から放置された状況に至っているなら、都市の荒廃があらわになっている空間とも言えるでしょう。GCMSの活動はそうした空間と対峙する、あるいは、その場所から何かを発信するというところからスタートしているように思いますし、再開発や大規模な強制退去、都市の商品化とは異なる形で、どうやってその地域の市民とともに都市の生命力を回復させるかを課題としているようにも思います。

・社会・芸術・持続可能性
 商業化の大きな波とは違う形の空間を作り出そうとするとき、彼らの活動の中では、「社会」、「芸術」、「持続可能性」といったキーワードが分かちがたく結びついているように見えます。
ある地域が荒廃していく時、地域全体に「空白」が目立つようになります。「シャッター通り」を思い浮かべるとわかりやすいでしょう。雑居ビルのような建物もその例に漏れず、テナントや入居者が短期的に入れ替わり、その場所の空白が長期化して目立つようになります。人や物が循環せず、誰も人がいない、放棄され、荒れた場所があちこちに現れるわけです。場所を通じた人のつながりや、その場所を占めている入居者同志のつながりや関係があるわけでもない「空白」。その場所は何か出来事を起こしたり、人どうしのつながりを作ったりする力を失っているわけです。バラバラでタコツボ化された場所が集まっただけの空間ができあがり、そこでは住民もまた、つながりがなく分断されています。
 GCMSがまずそこで行なうのは、「社会」をそこに再建することです。人や物、お金が行き交う場所や機会、市民どうしがつながりを持ち、共同で何かを行なうことができるような場所として、意味のない空白を有意義な空間へと再生してきます。例えば、周辺の市民とともに巻き込む形で文化イベントを行い、また、そのイベントの中で模擬店を展開してもらったりする。建物が解体されるまでの期間限定とはいえ、一過性ではなく、継続的に周辺の市民にとってその空間を利用しやすくして、その空間を利用し、経由して何か活動することで、市民に利益がもたらされるようにする──そうした自律的な「社会」の形成を、解体途中のビルで試みているわけです。
 同時に芸術もまた、重要な役割を果たしていきます。ここでのアートは、個人ないしグループの作品として独立したものとは違って、地域の意味を失い、住民にとっても空っぽだと感じられる建物に新しい意味や、活力を与えるためのものとしてあります。アーティストたちは自分たちのコンセプトや画風を建物に持ち込むと同時に、建物に刻み込まれた記憶や歴史、多くの人びとの営みに触発されて制作をしていきます。自らのコンセプトと場所から受け取るモチベーションとの合作として「作品」が登場するわけです 。
地図を作る観点や都市計画の観点からすれば、そのビルは単に解体している途中の建物でしかありません。しかし、彼らはその建物全体を何かで包むように、別の存在感を描いていく。「社会」を再生する仕組みづくりやイベントの開催、あるいは建物が持っている歴史や、そこに住んでいた人たちの足跡を掘り起こす「芸術」。プランナーや芸術家を媒介にして、住民たちがその場所に活力を与えはじめ、建物自身が生命を取り戻していく。ここに、大規模都市計画や再開発とは違う形の都市の利用の仕方を見ることができるのではないでしょうか。
 スクラップアンドビルドが繰り返される都市の中では、解体中の建物で行われることなどは小さな一瞬のことにすぎないでしょう。しかし彼らの活動を見ていて感じたのは、その一瞬の小さな出来事や、埋もれた記憶を掘り起こしたり、バラバラになっている人間の営みを集めて実際に表現して見せたりすることも、アートやアーティストの力の1つなのだなということです。都市が絶えず姿を変える中で、違う価値や異なるものの見方があることを実際に示すこと。GCMSにとっては、そこにアーティストの「役割」が置かれているのではないでしょうか
 どこでも行われている日常的な光景。しかし、彼らの「都市解体方法論」の中では、解体されていく建物さえも、まるで生きているかのように見えてきます。何かが起こったり、見え方が変わったり、もちろん解体中なので内外の姿は劇的に変化していく。そんな変化を通じて、その場所の地域のとっての大切さが明らかになり、同時に市民・住民もそれを共有する。撤去されていくビルは、多くの人の大切な思いが込められたモニュメントであるかのようです。
 彼らは「都市解体方法論」は建物がなくなったら終わりというわけではなく、建物のそのものの持続できないか、試みているといいます。解体されていく建物からは出てくる様々な形の部材、廃材が出てきますが、それを彼らは再利用しようとする。彼らのプロジェクトを通じて、色々な出来事が発生し、それに関わった人たちの思い入れがこもった場所へと、解体されるビルは変化したわけですが、そうした思い入れや記憶が込められた「部品」として、そうした廃材が利用されていく。今はまだパフォーマンスやインスタレーションでの表現の道具にとどまっているようですが、実際の建物に利用できないかということも考えているのだとか。なくなってしまった建物が別の場所で命を永らえる。解体の渦中で発生した一時的なことを再現するとはいかないまでも、そこで生まれた価値観を伝える媒体として活用できないか、それを模索しているようにも思えました。

・おじいさん
 『おじいさん』──彼らが私たちにプレゼントとして残していってくれた絵本のタイトルです。タイトルのとおり、老ビルが主人公で、他に登場するキャラクターも様々なビルです。建物は生きているということを明快に示してくれる作品であると思います。建物たちは日夜、新陳代謝を繰り返し、時に改修され、あるいは解体されて死へと至ります。そうしたサイクルの中に、突然割り込んでくる新しい再開発ビル(どうやらお洒落な商業ビルっぽいキャラクターのようです)。周りの仲間たちは一挙に棺桶に入れられてしまいますが、しかし最後は棺桶に入れられた仲間たちが帰ってきて、また活発に活動を始めるという形で大団円を迎えます。昔ながらの街並みの復活ではなく、新しくやってきたビルも加えて、ビル群の営みは続いていきます。
 ビルが生きているということは、人々の暮らしによって(人格を与えられて)そのビルが成り立っているということでもあるでしょう。途中で表される仲間を失って悲しむ老ビルの涙は、その地域に生きる人たちが発する、そこで生きて暮らしつづけたいという訴えにも私には見えましたが、みなさんはどう感じられるでしょうか。
☆カフェより、このブログ読者プレゼント!
・この絵本「おじいさん」をカフェにて預かっています。
 欲しい方はカフェ・カウンターにてお渡しいたします。(先着6名様)

・この港湾都市で
 年季の入った港湾都市──神戸は形容するとこんな感じでしょうか。甚大な災害を待つまでもなく、港湾自体は80年代のなかばから、低迷期に入っていきます。神戸の街並みが大きく変わる発端は、おそらく、この時期だったのではないでしょうか。「居留地」であったことは消費を喚起するに魅力的なフレーズとなり、山の手の外国人向けの住宅地であった地域は、その住宅地というよりも、神戸を代表する観光地として知られています。最近では、かつての有力な輸出品の検査していた施設も......。違う都市のこととはいえども、今回の話題は私たちにとっても無縁なことではなかったでしょうし、異なるスタイルの活動を目にして得られるものも多かったように思います。私たちが依るかつての「アーバン・ピクセル」。では、はたして今は......?

 そうだそうだ、CAPでも大学とかやったら面白いと思いませんか(笑)。台所とかたいそうなことはできんので、台所(キッチン)をもじって、「チキン大学」とか「ひよこ大学」とか(嘘)。どうでしょう、やりたい人(笑)。すいません、冗談はこれくらいで......。またお会いしましょう。
(藤墳智史)


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※今回のゲストのGCMSについては京都hanare×Social Kitchenのサイトに概要が紹介されています。また、CAPでのイベントに先立って、1月29日にもhanare×Social KitchenにてGCMSを迎えたイベントが開催されています。
http://hanareproject.net/event/2013/01/-x.php

※GCMSが日本へやってきたのは、hanare×Social Kitchenを拠点に活動する「台所大学(picasom)」の呼びかけに応じてのこと。このpicasomはhanare×Social Kitchenのスタート直後から「アートと社会運動の公共性」という勉強会を続けているグループなのですが、その勉強会が50回目を迎えるのに際して、GCMSとコラボレーションでイベントを開催することになりました。
http://picasom.exblog.jp/


















いやぁ〜、いつもながらのスベリだし天晴れです!
ご苦労様でした。

鳴海健二 01カフェ日記
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