2012年12月16日

1月のCAPTURE「音楽を作る人に聞く?」


現代音楽の演奏会にも足を運ぶインド音楽の専門家、Hirosさんですが、いつもコンサートでは疑問がいっぱい。ついに音楽を作る人に直接話しを聴くプログラムを企画しました。同じような疑問を抱えているあなた、ぜひご一緒に「それは何?」と聴いてみましょう。Hirosさんにお願いしてこの企画に到る序章を書いてもらいました。

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フォルマント兄弟

 フォルマント兄弟のパフォーマンスとか、コンピュータを使ったノイズとか、この間聴いたリュック・フェラーリのヘールシュピールとか、バール・フィリップスとやった即興とか、ジョン・ケージの『4分33秒』とか、野村誠の『たどたどピアノ組曲』とか、大友良英ニュー・ジャズ・クインテットとか、内橋和久のダクソフォンとか、トーン・クラスターとか・・・。こういうアバンギャルドな音楽に触れた時、インド人の反応はどうなんだろうか。この種のものを面白く思うインド人はいるんだろうかなどと考えることがある。長い間インドの音楽に関わってきたので、ふと気分はインド人になって考えてしまうのだ。最近ではインドでもポップス、ロック、ジャズなんかもずいぶん知られてきたが、それでもまだよほど特殊な人以外、西洋音楽を聴くことはない。ほとんどの人はバッハもベートーベンも知らないし、ましてや上に挙げたような音楽が存在することすら想像できない人がほとんどだと思う。だから、たぶん普通のインド人は、あんな訳の分からないものがどうして面白いのかと思うに違いない。

 わたしは普段は気分は西洋人なので、うーむクリエイティブだなあ、訳が分からない時もあるけどこういうのもありかな、けっこう面白いかも、眠いけどもうちょっと我慢してみようか、などと思う。世の多くの人も、たぶん、わたしと同じように日本人特有の耳というよりも気分は西洋人で聴いているのではないかと思う。

 音楽の場合、われわれは気分は西洋人であることは間違いない。なにしろ子供のときからそうなるよう教育されている。中学の音楽教室の壁には、カツラをかぶったバッハやらモーツァルトやらの大作曲家の肖像画がずらっと並んで生徒を見下ろしていた。彼らに匹敵するかは分からないけど、ま、いちおう、みたいな感じで瀧廉太郎と山田耕筰の二人の日本人もいたが、残りは全部西洋人の男たちだった。五線譜を読むべし、和音を理解すべし、さあ一緒に歌いましょう、とピアノ伴奏で歌わされたわれわれは、筋金入りの気分は西洋人なのだ。

 しかし、西洋的文脈の流れにあるはずのいわゆる現代音楽や、クラシックには分類されないアバンギャルドの音楽になると、「作品」が何か新しい創造であることは理解しても、どう評価していいのか困惑してしまうことが多い。そういうものに何かしら方向性があるのか、あるとすればどの方向へ向かおうとしているのか、方向性なんかなくて一人一人別々のことを単にやってるにすぎないのか、などと考えてしまうのだ。なぜか。音楽に限れば、われわれは気分は西洋人ではなく、気分は19世紀までの西洋人だからだ。

 いわゆる現代音楽やアバンギャルドの音楽は、19世紀までの西洋音楽のあり方を問い直し乗り越えようとする動きである。音楽のあり方や作曲行為そのもの、聴衆と音楽家の関係の見直しや、デジタル機器やインターネットなどメディアによる表現の拡張などなど、いろんな音楽家たちがいろんなやり方を試みている。そんな音楽家たちに、気分は西洋人、ときには19世紀までの西洋人、たまに気分はインド人、ごくまれに気分は山形人、外国へ出かけると気分は日本人であるわたしは「もしもし、いったい何を考えているんですか」と尋ねてみたい。
Hiros企画「音楽を作る人に聞く〜音楽家の耳と脳」
#1『フォルマント兄弟に聴く』1月27日/#2『野村誠(作曲家)に聴く』2月15日(金)/#3『椎名亮輔(音楽美学、音楽哲学)に聴く』3月15日(金)

Hiros 中川博志(なかがわひろし)http://sound.jp/tengaku/
1950年、山形県生れ。インドのベナレス・ヒンドゥー大学音楽学部楽理科に留学、インド音楽理論を研究。大学のかたわら、バーンスリー(横笛)、ヴォーカルを習う。訳書『インド音楽序説』は日本語で出版されている唯一のインド音楽理論書。
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